序章



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佐渡88ヶ所霊場 歩き遍路日記

 

佐渡島88ヶ所霊場を歩き遍路すると決めたのは、年末あたりだったと思う。

漠然と行きたいと思った。

しばらく、踊るような刺激がなかった。宮島もなんとなく落ち着いてしまって楽しくなくなっていたのも一因。

出発を決めて、仕事の整理をした。20日間くらい自由時間を作る必要がある、まず、声を出して

佐渡に行くことを宣言した。

その時は、特別な計画があるわけでもなく、知識もなかった。

声を出してから、ネットで調べ霊場の事務局に資料(納経帖と案内MAP)を頼んだ。

佐渡は女房の実家もあるので、親戚に情報提供をお願いした。

まもなく清水修一君から、計画書なるものが送られてきた。

その時点でも、まだ漠然としていて誰が行くのだろうかといった雰囲気だった。

1ヶ月2週間と近づいてくると、少々あせりだした。

持って行くものの選択・気温のことなどが気になりだした。

いまさらやめるとは言えない状況に追い込んでいるので、行くしかない。

なかなかコースが決まらない。

佐渡の霊場会事務所に問い合わせたが、車で回る人が多く歩く人はいないと言うことだった。

案内
MAPも車に都合のいいように作られているので、歩き遍路には辛い。

距離感が車と人は違うことが反映されてない。

-3日前になって、珍しく奥様が「止めたら」と言い出した。

余りにも準備不足と意気込みのなさに呆れたようだ。

気温とかの状況は分からないので、依然お世話になった「かね長旅館」に手紙を書いた。

そして、荷物を送るので遍路中保管をして欲しいとお願いした。

結局のところ、現地で遍路の装備を決定することにした。

1週間まえに送ったが、大雪の被害が各地で出ていて無事着くかも分からないという宅配業者の人の話があり、

念のために予備を持って行く事になった。

寒いとう感覚が広島と佐渡では違うので、言葉で共有することは難しいと考えていた。

宿や交通機関の問題があり、希望の場所に宿が確保できないことも想定。

ヒッチハイクもしくは民泊をお願いする可能性もあり、この時期不審者扱いを受けるかもしれない。

新潟日報にメールを入れた、素直に事情を書き、是非取材をして欲しいと頼んだ。

返事はなかったのでだめかと思っていた。














99歳で亡くなった、濱田守太郎さん

無形文化財「文弥人形」の遣い手だった



 









次へ続く