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2004.7制作されたパンフレット
                                                

吉田にある 清神社(すがじんじゃ)

桜の頃においでくださいとのお誘いに甘えて行ってみました。

毛利元就のテレビの番組で知った場所。

  



見事な杉の大木は威厳そのもの

  

清神社の沿革について


       神社の名前は、 清神社で「清」と書いて「すが」と読みます。
ご祭神の「すさのをの命」が住まい居つかれて、「ああ、われ清々し。」と申されたと伝えられる故事に因んでおります。
ご祭神は、「素戔鳴尊」、相殿に、稲田姫とその両親、脚摩槌、手摩槌の他、五男三女神をおまつりしています。
     伝承では神代から鎮座と伝えられております。日本書紀の別書に「素戔鳴尊」が、八岐の大蛇を退治されたのは、
     可愛川(江の川の本流)の上流として件がありますが、その伝承の地とされている所でございます。
      近郷に、稲田橋、簸の川、大蛇が淵などというゆかりの地名が残っていますので、相当に古い時代当地方には、
    可愛川の川沿いに集落があり、「素戔鳴尊」を守護神といておまつりしていたものと思われます。
      当社は、古くは行宮清神社、祇園崇道ともよばれたことがございます。
       行宮清神社とよばれていたことから、相当に高い位の社であったことがうかがえますし、
       祇園は、「素戔鳴尊」をおまつりしたお宮のことであり、また、崇道は、日本書紀を編纂された「舎人親王」のおくりな(謚)で、
     日本書紀の中で大蛇退治の地をこの吉田の地であると紹介していただいたお礼に、この社におまつりしたとされ、
  合わせて祇園崇道とよばれていたものと思われます。
「舎人親王」は、今は、境外摂社の森藤神社(吉田町の商店街の氏神さん)におまつりしています。
        記録としてはっきりしていいますのは、正中2年(1325)の棟札をはじめとする現在までの棟札16枚が残っており、
      天文17年(1548)隆元、永禄11(1568)・・・元就、天正11(1583)・・・輝元など、
        なかでも、毛利元就、隆元、輝元が大旦那としてとりしきった宮普請のものは特に有名で、
毛利氏の崇敬が厚かったことを物語っています。
       NHK大河ドラマ(毛利元就)の放送決定があって、参拝や見学の方も沢山お見えでございます。
        また、サッカ−Jリ−グ「サンフレッチェ」チ−ムが、必勝祈願に参拝するお宮としても知られるようになりました。


       例祭の日は5月5日、吉田の市入り祭りとして有名で、神興が渡御、その後を壇尻屋台が二台(八雲山、千歳山といいます。)お供をします。昔はお旅所に11日間滞留されましたが、現在は即日還御になり、ます。
       この屋台の上では、吉田中学の2年生3名づつが子供歌舞伎を演じます。今年もNHKは全国ネットで放映し、
各地の吉田の出身者から喜ばれ、なつかしがられて全国各地から電話などでうれしい連絡がございました。
     壇尻屋台は、京都祇園八坂神社の山鉾をかたどったもので、延宝3年(1674・・・・約330年前)から続いております。
 盛大な時は、屋台が5組もお供をしたと伝えられています。

     現在の社殿は、元禄7年(1694)建立のもので、ご覧のとり正面に千鳥破風、
その前に軒唐破風をもった流れ造りの切り妻造りで「あります。


           社宝としては、聖護院道澄法親王のご染筆になる感神院の社額(厳島神社の勅額によく似た様式です)
         道澄法親王は、毛利氏と豊後大友氏との抗争を止めさすため朝廷から和睦使として毛利家に差し向けられた方です。

      次に、落書き格子、これは元亀3年(1572)当時の神社の総元締であった京都の、吉田兼右の社籠のこと、
       3月5日から二泊三日と記録されております。
      また、天正4年(1576)関白九条植通が社殿で源氏物語を講義したことが記録に残っており、
           吉田の土地が文化の香りの高いところであったことをうかがわせます。
関白九条植通というお方は、ご容姿も態度も実に立派であったと書かれているものであります。

      元就寄進の、備前長船の刀(文明3年の銘、1471)・元亀の舞楽面(面に元亀と彫ってある)・輝元が半島遠征
        に従軍した折りに持ち帰った高麗焼1対等があり、いずれも資料館に展示してあります。


         また、当社のものではございませんが、毛利家が勧請した氏神宮崎神社の社宝鎧石、沢善四郎征伐の折、
        江の川で先陣の功を立てた毛利氏師親が渡河中、石が三度も鎧に入ったとのことで持ち帰り、
それにちなんでその武勲にあやかるよう、毎年餅をついて家中に配ったと伝えられています。
広島の名物「川通り餅」の由来です。

2001.5 波多野邦彦 宮司に頂いた資料より



〒731−0501 広島県高田郡吉田町大字吉田477
TEL(0826)42−0123
清神社

吉田の波多野宮司から

本殿大屋根・両部鳥居修復
竣工の奉告祭



4月8日(土)午前11時 祭典斉行
ひきつづき 鏡びらき・餅まき・神楽の奉納があります

2012.9.14

郡山城本丸から二の丸を望む



思い立って、女房と2人で安芸高田市へ行った。
高宮の湯へ女房を届けて、ひとりで出発。
まず、地元の知人の喫茶店へ行き、情報を収集。
その後、清神社へ行き、パンフレット・ポストカードの今後の展開に
付いて打ち合わせ。
急いで、郡山城本丸を目指して出発した。
1周道が有るのでチャレンジ。
以前登山客に聞いた時は、所要時間は2時間30分。
話が盛り上がってしまい、清神社神社を出発したのは、4時12分。
まず、墓地のある道を登って行き、尾根づたいに本丸を目指した。
あたりは、かなり薄暗く、誰もいない。
マムシ注意の看板があちこちにある。
カエルもはねているので、要注意。一気に1200mを登った。
40分くらいで本丸に着いた。
薮蚊が多く、立ちどまっておれない。写真を撮り早々に下山。
途中で地図をなくしてしまい、困った。
下りは以前来たことがあるので問題はなかった。
15分弱で清神社に戻った。1時間弱。写真もだいぶ撮った。
その後は、高宮の湯に戻り、1時間ほど風呂に入り広島に帰宅した。