タイトル

 空界

四国八十八ヶ所歩き遍路の記憶

私にとって最後の旅になるかもしれないという覚悟で出立した。
今しかないと、四国歩き遍路旅立ちの相談を女房にした。
女房は「行けば」という一言だった。5月の連休明けに出発と決めた。

あっという間に、出発の日が来た。
壮行会をしてもらった。
私自身はお別れ会のつもりであった。
多くの方が来て下さった。
もう、あとに引けないと覚悟した。

四国の板東駅で長い間待たされた。この先どうなるのだろうかと不安がよぎる。
1番札所の前の宿に泊まった。装備を買いに行った。宿泊客が、今から行くのかと聞いた。
本当に回れるのか自信もなく想像もつかなかった。
翌日、1番札所に行き記帳した。
幾多の困難が待っていた。体力的に苦しいのは想像していたが、気力が続くのだろうかと心配した。
思ったより歩き遍路の人が多いのに驚いた。みんな自信に満ちて出発しているように見える。

出発から3日目に弱気が襲ってきた。足の指爪の根本が裂けて、爪が死んだ。宿のご主人は、一度帰りなさいという。
帰ったら二度と来ることが出来ないことも判っていた。
女房は「3日で帰る訳にはいかないでしょう。何日かかっても、宿に泊まり治療をしてから出発しなさい。」と言った。
この一言で、チャレンジが始まった。1日、何キロでもいいから進もう。
止まることはしない。と言い聞かせて歩き始めた。

階段を下りているときに、地元の年輩の白い長靴を履いた女性とすれ違った。私の手に1000円札を握りしめさせた。
良いんですか?私みたいなものにお金を下さって。
これも、ご縁ですから。私のかわりに回って下さい。
必ず、回ります。
これだけの会話で別れた。決心が強固になった。それから45日余りかかり結願する事が出来た。

ふと気がついたら、遍路仲間がまわりにいた。
いつから一緒だったかは判らない。宿が同じになり、お寺で出会い、休憩場所が一緒になって来るうちに、話しをはじめた。
この人達の多くは、結願する事が出来た。
途中でリタイアした人も、再チャレンジをして結願した。
大きな励みになった。
あとから気がつくと、旅の大半で同宿も数少なく会うことも無くなった仲間も多くいたが最後まで気にかけはげましあった。

88番札所に着いた。何の感想もなかった。感動して涙を流すかと思っていたが、さばさばとして乾いた気持ちだった。
まわりの仲間も同じような様子だった。

特に、途中からアルコル−依存症の父を立ち直らせようと旅をしていた岸本親子に出会い旅をすることになった。
息子の名前は、岸本孝太郎君
人間の表情がこれほどまでに変わるのかと驚かされた。
孝太郎君は、結願が近づくにつれ、こっそりお酒を飲み始めた父の為ではなく、自分の為の旅だということに気がついたみたいだ。
自分の鏡を見るような人間の弱さを見せる父の姿は、責める気にもなれない辛さ。
そばにいて、孝太郎君を助けてあげることも出来ない。
ただ、そばにいることしか出来ない私のふがいなさも痛感した。

今、思うとこの旅は自分にとって何だったかは説明が出来ない。
空(む)という世界に入ることが出来た喜びが人生の財産であるような気がする。

                                 出品者 藤原隆雄

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歩き遍路の記憶

私は、写真を撮るときに自分に言い訊かせることがある。
「この写真は一人称?二人称?三人称?」
どういうスタンスで撮るのかということだ。
四国歩きお遍路は、まさしく自問自答の旅。
偶然出会った親子と旅をするうちに、撮りたいという気持ちになった。
偶然に見つかったものではない「自分の心にある映像」が私の目の前で展開している。
思わず見とれて、シャッタ−を忘れた。
しかし、今、私の心の目に強く焼き付いている写真が幾枚もある。

杖しかと遍路の一歩打ちはじむ 利昭


初めてお接待を受けた。
錦札・金色札・銀色札そして1000円を下さり、私の変りに回ってください。と・・・・



奥の院に行った。1円玉を20枚お接待にと下さった。







苦しい焼山寺に登り、どしゃぶりの中。
軒下で休んだ時、目の前には大きな古木が話しかけてきた。




この橋を、誰かが歩くのを待った。30分ほどすると1人の男性が私を追い抜いていき
橋の真ん中に座って動かなくなった




狭い、険しい山をただ、ひたすら歩く。立ち止まると、追い抜かれて行く。
雨の中、座ることも出来ない。ふっと、人影が見え隠れする。



13番札所。だらだらと山を下って平地に着いた。もう、足の指は裂けて歩くことも出来ない。
3日にして、挫折かと覚悟した時、空気のように立ち尽くす人の群れを見た









霧雨の中にお寺があった。いくつも山を越え、朦朧とした中で荘厳な空気があたりを包んでいた。



目の前を若いふたり連れが歩いていた。写真を撮らせてください。
と素直に声をかけることが出来た。




内妻荘のご主人。
そばに来て、しばらく話をして行った。








お接待所で、菅傘の紐のかけ方を、遍路仲間の金沢さんに教えてもらった。
新潟生まれだから、得意なんだ。

金沢さんは、ご婦人たちに傘を修理してもらっていた。







金剛頂寺への道。いろいろな姿を見せてくれた道々。
恐ろしくなり、塩をおいた場所もある。
光は、辛い道を照らして導いてくれる。



波多野さんとは、この時以降は会うことはなかったが、電話で元気な声を聞くことが出来た。






ここから、岸本親子と旅が始まったような気がする。
それまでは、ただの遍路仲間。




ちょっと頑固な柴田さん。考えてみると3日目には、同宿であった。
37番札所岩本寺までは、一緒に旅をすることが多かった。








36番札所青龍寺での岡野さん







直木賞を狙っているという、徳島の大学生。



久百々の民宿の夫婦



安宿にて

こっちにおいで

歩いていると 声がしてくる

声のしたような気のする場所を見ると 大抵、そこには人がいる

時には、野仏・地蔵もいる

気配だけの時もある

ベンチに座って手招きをするおばあちゃん

横に座ると「子どもはいるの」と聞かれた

「はい二人です」

「おばあさん、ここで何をしてるんですか?」

「うん、遊んでるの。」

懐かしさが押し寄せてくる

子供の頃、かわいがってくれたおばさんを思い出す。

孫のように、いつも気にかけてくれていた人。

今は、どこに墓があるのかも判らない。

思わぬところで逢えた















俳人の堀田利昭さん
私のために一句読んでくださいました。

へんろ道カメラ離さず求めけり




今日は、息子の誕生日だから、私がお接待します。飲みましょう。と
いたく楽しそうな親父さん。







義理の弟、金尾哲也君
いつもの難しい顔はどこへやら






 
 















義理の弟、金尾哲也君
いつもの難しい顔はどこへやら




天皇とみんなが呼んでいた。大嶋さん。
近寄りがたい中にも、やさしさがにじみ出た方でした。



仙遊寺の部屋から下界を見た。











息子が、いとも簡単に親父を抜き去った。



66番札所雲辺寺の五百羅漢



雲辺寺から観音寺市へ向かって、山を一気に下る



この辺には、自販機もないので遍路さんは困るじゃろう

缶コーヒーをお接待すると、待ち受けていた












同行二人(どうぎょうににん)

こんな杖は邪魔だなと思いつつ1番札所を出発した旅。
88番札所に着いた時、この杖は、身体の一部になっていた。20cmも短くなった杖。
「奉納して帰らないの?。」
とんでもない、人生の大きな節目に一緒に歩いてくれた杖

なんで、ここに置いて帰らなくてはいけないのか
人生の終わりまで、そばにいて欲しい。
同行二人。
弘法大師が一緒にいてくれる。
そんな風に聞いてたが私の後ろには、常に誰かがいて、励まし、守ってくれていました。

辛い、寂しい、怖い山の中でも、常に後押しをしてくれていた人。

観音寺を離れて行くときに、寂しい気持ちで去りがたかった時、

ぐんと押してくれた。

何故か、涙が止めどもなく流れて、道を歩きながら汗と一緒に拭いていた。

観音寺市は、今は亡き父親が特攻隊の訓練を受けた場所。
どうしても行きたかった地。

孝太郎君には「悪いが、一人で歩かせて欲しい」と言い、先に出発してもらった。




親父さん、今日は良い顔してますよ。
と言って撮った。何か吹っ切るものがあったようだ。








親父のために旅をしたはずなのに、いつの間にか自分のための旅に変って行く様子が見てとれる。













孝太郎君へ

四国八十八ヶ所を歩いて廻りたいとふと思い、旅だった私でした。
歩くことと写真を撮ることの難しさ、何を撮ったらいいのか判らない出発。
そんな中で偶然知り合った孝太郎君達親子。

アルコ−ルを断ち切る決心をして、足を引きずりながら歩くおやじさん、そして遅れてくるおやじさんを待つ息子・・・。
「アルコ−ル依存症の父親を立ち直らせようとする息子」
そんな風に見えて、私はおやじさんと孝太郎君あなたちふたりを撮り始めました。

しかし、本当は違っていました。
私も含めお遍路仲間の多くは、自分に置き換えて二人を見ていました。
自分のふるさとに帰れば、家族が待っている人もいる。すでに亡くなってしまっている人もいる。
それぞれが家族を思いだしていました。
誰しもがあの親父さんの結願は無理なのではないかと思いました。どこまでもつだろうかと思いました。
しかし、みんなが疲れて休んでいるときでも、一時も休まず亀のように、歩き続け追いついてくる親父さんの姿に感動を覚え、
その姿は、遍路仲間・宿の人たちの思いを一つにしました。

「うらやましい」と思いました。
そこには、親子の葛藤や人間の弱さ、もろさ、そして強さ、人生の縮図を見たように思います。
そんな二人と後半は一緒の宿でした。
孝太郎君、いろんなことがありましたね。
いつも2時間以上遅れて、ぼろぼろになって宿に着く親父さんが、
ある日、いつものように私もへとへとになって宿を探しているとき、浴衣を着てさっぱりした姿で
「こっちだ!こっちだ!」と大声で呼んだときは、唖然としました。
落胆している孝太郎君を見るのが忍びない思いでした。

こんな孝太郎君に、私は「若い孝太郎君は、潔癖主義だろうが、私の年になるとベストでなくてもベタ−もあることを考えるんだ。
おやじさんも、考えているはずだから。目的を達成することを最優先に考えて、目をつぶっては」といいました。

そしてとうとう、お酒の臭いがし始めたおやじさんに「親父、車はしかたない。
しかし、酒はやめろ」と遍路仲間の前で君は言いましたね。

でも、私はおやじさんを軽蔑する気持ちはおこりませんでした。私の中にもある弱さを鏡で見るような思いでした。
他の遍路仲間の人たちも同様です。
あのひたむきに歩く親父さんを見ている人は、同じ気持ちで見ていて、車に乗ったり・お酒を
飲んだりということが判っても変わることはありませんでした。
なんとか最後まで行ってくれと願うような気持ちでした。

広島に帰って来て、礼状と写真を送った汐浜荘の女将さんから、電話を頂いたときに、
まず聞かれたのは、「あの親子はどうなりましたか」でした。

「無事、結願されました」と伝えると「私は、お父さんは絶対無理だと思った。よかったわ。」と本当に喜んでいました。
87番札所でおやじさんが「藤原さん、明日はお友達が一緒だから、今日が最後だね。ほんとうにありがとう。」
「私こそありがとう、そばに二人がいなかったら、私こそ結願できたかは判りません。」

10月5日に届いたメールから> 

ご無沙汰しています
思い出が一杯詰まった写真拝見しました
ありがとうございます・・

嬉しくて、懐かしくて何だか胸がいっぱいになってしまいました

映像は凄いです・・・瞬間にあの時間にタイムスリップしてしまいました
やはり印象的なのは孝太郎君のお父さんの顔がお地蔵様の様に見えていました
そして安宿のおばあさんのお顔、穏やかで澄んだ目をされていました
大川さん、波多野さん・・・美しくて生き生きしています
個展を見させていただくつもりでしたがどうしても都合が付かず残念です
東京近郊の方にお会いできると良いですね
機会がありましたら、私も元気でいるとお伝え下さい
友人等にもハガキ出してありますのでお伺いすると思いますが・・
個展盛況でありますように願っています
また何時の日かおへんろで知り合った皆さんとお会いする機会が出来れば

嬉しいですね。
これからもいいお仕事沢山してください
どうぞ奥様にもよろしく・・・
失礼します


落合 博

落合 博 様


今回、写真展開催で一番感謝しなくてはならないのは落合さんです
作品展といっても、自分にとっては過去になってしまい
そのときの心模様を思い出しながら、過去に戻ってそのときの心情で
作品をセレクト、そして、整理していく作業が思ったよりも大変でした
そんなときに、落合さんが四国遍路に再出発されました
気持ちを一緒に四国を廻らせてもらい、
心のバランスを保ちながらのこの1年間でした
1
1枚大切な作品を絞っていく過程で、どうしても削らなければなりません
2500
枚から500枚へ、そして60枚、最後に51枚 この作業が辛かったです
優劣のつけられる作品ではなく、
作品展の枠組みに入りきらず、削ることになった作品が多かったからです
51
枚に入れることのできなかった方々には大変申し訳なく思って心が痛みます
四国遍路がご縁で宮島を撮ることになりました
それも、厳島・弥山・空海開山1200年祭
今まで知らなかった弥山への登山ルートも見つけました
9
28日には、尾根を登るルートを2時間30分かけて登りました
雨の中、胸までの高さのあるシダの道も登りました
最後は、「女体山」以上の道なき崖道をよじ登りました
登りきったところで、雷と豪雨にも逢いました
四国を歩いていなかったら、こんな危険な道は歩けなかったでしょう
台風の影響で、道には倒木があふれていました。
途中にあった観音堂 心が安らぎました
こんなすばらしい場所が宮島にあったのかと、うれしくなりました
この道は昔、陶軍が毛利軍に追いつめられ崖から滅んで行った道なのでしょうその崖の頂上を目指す道でもありました
そして、その翌日29日、女房の兄貴(長男)が佐渡で亡くなりました
10
月2・3日と佐渡に行って来ました
個展のハガキの人が、兄さんに見えました
葬儀は真言宗でした
厳島大聖院も真言宗
今から撮らなくてはならない真言宗の心と儀式を、やさしい兄は
私に見せてくれているように思い、夢中で写真を撮りました
感謝しています
半分は、落合さんの作品と思っています





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