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第4章 イタリア編 後半



1016日(日)

Bologna stay Savhotelボロニャの町を歩いて観光

少し遅い起床。
8時から朝食をとるために、1階のバイキング会場に行った。
大勢の宿泊客がいて席がない状態。離れた場所にテーブルをとって料理をとりに行った。



ここがいままでのホテルでは、一番種類が多いような気がした。
日本にも有るようなボリューム。和食がないだけ。パン・チーズなどの種類は多い。
女房は相変わらず大盛りで朝食をとる。私は、少し控え目にしておいた。
エンツォが歩くぞと言っているのを聞いていたから。

11時に迎えに来てくれた。
中心街に車で行ったが、駐車場は無料開放ということもあり超満員で駐車が出来ない。
道々、エンツォは自分の家庭の事を話しだした。奥さんが出て行ったと言う。

 

理由は話さなかったが、突然指輪を置いて出て行ったと元気がない。
1時間近くぐるぐる回っているので、無理をしないで郊外でも良いよと言ったら、娘がミラノから戻って来たので、
この駐車場で待ち合わせていると言う。昨夜は、学業があるので会うのは難しいような話だったのであきらめていた。
再婚相手の子供さんと聞いていた。
前を走る車が運よく駐車出来たので、おしかったなと行ったら、娘の車だと言う。
近くにエンツォの車も駐車出来た。
車を降りて歩きだした。
ボローニャの町は、もともとは水の上にあったような話で、川の上に町があったと言った。
広島も同じような地形で、地下鉄がないと話をした。
ボローニャは古い交易の町で、各地への中継地として発展したらしい。
今は、大学の町として有名だそうだ。町並みは落ち着いた歴史の重みを感じるような町。
人口も多くないようで、人であふれていると言う感じはなかった。
町を有るいおていると、小さな川があり、その上に町が建っているような場所に案内してくれた。

 



これがボローニャの昔の姿だと言った。ベネチアを小ぶりにした町にも見えた。
いたるところに排水管が埋めてあるそうだ。
教会に案内をしてくれた。
大きな教会(
TORTELLINI IN BRODO)で重厚感あふれ感動して写真を撮った。
フラッシュはダメだが写真を撮ることは大丈夫だった。
娘のシルビアもフジの一眼レフカメラを持って撮っていた。

  

  

 



シルビア(エンツオの娘) タカオ エンツオ

何かのコンテストに入選したらしく、写真に大変興味を持っていたし、日本文化に感心があると言っていた。
雑貨屋でシルビアは単三電池を買っていた。
店の中は、本当に何でも売っているらしく、天井までぎっしり商品が置いてあった。


ここで、シルビア帰らなければならないと言って帰って行った。
それまでに記念写真を撮っておいてよかった。


町中を歩いていると、古い建物の前に人が集まっているので、何かと覗くと。
赤いフェラーリと緑のランボロギーニ・もう1台私は知らないクラシックカーが展示していた。
コンサートか何か有るようで、それに合わせてスーパーカーが展示してあるらしい。
孫が、フェラーリを買って来て欲しいと言うので、保険をかけて写真を撮ることにした。




 

 


そこからしばらく歩くと大きな広場に出た。

 

ここがセンターらしい。
銅像(Fontana del Nettuno)もあった。



 

この前でエンツォと記念写真を撮ってもらう。
この広場の建物の持ち主だったボロニャの王(
NETTUNO)の名前が、エンツォだと自慢をしていたので、
記念写真を撮ってあげると大喜びだった。
広場(Piazza Maggiore)では、イベントが行われていた。
言葉が分からないが、盛んにスピーカーを使ってしゃべっている。
広場に白と青の皿を並べて絵を描いている。アフリカの救済キャンペーンのようだ。ポスターと看板が展示してあった。



広場に面した場所に大きな教会(Basilica di San Petronio)があった。
修理中のようで、布に修復終了後の姿を写真でプリントして覆い幕として使用していた。
一番高い塔(Torres)に登ることになった。
向かう途中に市場のような場所に連れて行った。
狭い場所にたくさんの店がならぶ。エンツォは壁を指さし、あそこに行けと言う。
女房を道の反対側の壁に向かって立たせている。壁に向かって話しをしてみろという。
意味がよく分からなかったが、周りの店の人が笑いながら、少し静かにしてくれた。
壁に向かって話をすると、反対側の壁に向かっている女房に話し声が聞けた。
天井を伝って声が反響をしているようだ。聞こえると言うと、エンツォや周りの店の人から拍手が起きた。
昔の生活の知恵なのか。
 

  

着いた塔は97mある。
入場料を払って登る、狭い階段を登り下りが一緒なので、途中広い場所でお互いに待機しながら進む。
下を見ると目がくらむような階段が見える。
階段の木は、擦り切れて真ん中が編込んでいる。汗をかきながらやっと登る。
女房は弾数を数えていたらしく、485段あったと言う。
上ン展望台は狭く、20人も入れば満杯状態。
自殺者が多いかったらしく、厳重にガードがしているので展望は良くない。
狭い窓から見ると、ボロニャが一望できる。
昔の町の作り方がよく分かる。
放射線状に道路が作られている。ローマに続く道、フィレンチェに続く道、海に続く道とある。
ボロニャ空港も見える。
古い街並みの外側には新興住宅地が広がっているのが分かる。


  


 

古い建物の中に商店が展開している場所を通り抜け、ケーキフェアーをしている会場の前を通り、
先ほどの広場を抜けて広場に戻った。

 

 


中に入ろうと受け付けに並ぶと入場料というか復興基金のような徴収をしていた。
パスポート番号を記入しなくてはいけない厳重さだった。
パスポートをホテルにロッカーに置いていたので、メモを見ながらかなりいいかげんい書いて邸移出したが、
問題なく入れた。
この入り口は、館内への入り口ではなく外観に作られた工事台を登って上に上がることが出来た。
上から見ると、先ほどの皿のアートの絵柄が分かった。
乗り物を描いているようだ。それだけを見るために上に上がったようなものだった。




 



すぐに降りて行った。
中は昼休みで3時から入場可能だった。
それまで、そばのカフェでコーヒーとトイレタイムにした。
最初エンツォは自分がトイレに行くために、カフェで水を2本買ってくれた。
私たちもトイレを使いたいし、少しコーヒーを飲みながら休みたいと言った。
今回の旅で感じたことは、みんな水分をほとんど取らない。
トイレにも行かない。
小食であるという感想である。
コーヒーと行ってもエスプレッソは小さなカップに1cmくらいしか入っていないので、一口で飲んでします。
日本のように味わうという感覚はない。
飲んだら、さあ行こうといスピード感。
3時まで待てないので、教会の中に入るのはあきらめた。



明日のサボナー行きのチケットを買ってないので、まず、ボロニャ駅に行き、チケットを購入した。
エンツォがついてくれた。ものすごい行列。
やっと順番が回って来たが、英語は通じない。
予定表をエンツォが受け付けで見せた。
何か話をしていたが、エンツォが言うには、この予定表では、時間がかかり過ぎること。
乗り換えが多いので間違う可能性が高い。
まずミラノに急行で出てかたサボナーに向かった方が安全だという説明。
料金は二人で135ユーロするので割高になるがどうするか?

任せるほかはないので料金は承知して購入した。
カードが使える案所為番号を機械に入れて無事ゲット出来た。
今から、丘の上の教会(Santuario della Madonna di San Luca)
に行こうという。
お任せ。エンツォは自分の決めたことを実行するタイプ、途中に問題があっても変更をしない。
駐車場の確保の件でも、私ならとっくにあきらめていたが、辛抱強い。
昨年の巡礼の時でもそうだった。
最終日リヨンの町で、夕食を一緒に食べた時も、自分が見つけた店を探して1時間近く路地を探しまくった。
車で10分ほどで丘の下に着いた。
駐車するのかと思ったら、道を強引に登って行った。
違法かどうかは分からないが、対向車もいない。
教会の近くの道に車を止めて教会に向かった。



  

 教会の壁は、夕方のせいもありオレンジ色に染まっていた。大勢の人が来ていた。
中に入ると驚くほど広い。
ミサが始まっていた。
中は撮影禁止。
カメラのキャップをして静かにお参りした。
信仰の深さを感じる時だった。エンツォの先妻さんと35歳で亡くなった一人息子のために、お参りに来ると言っていた。
受け付けで献金もしていた。



夕食をおごることにして伝えておいた、車を止めた場所のレストランに入って行った。
ピザが食べたいが、エンツォが行ってくれたレストランのように、たくさんの料理が食べれないと言っておいたので
、エンツォも遠慮したらしく、ピザ生地のサラダを頼んでくれて、ビールを飲みながら食べた。

  




私たちはてっきり前菜でピザが出てくると思って、サラダのピザ生地をわざと食べなかった。
いくら待っても出てこないので、ピザはまだかと聞くと。
頼んでないと言う。気を聞かせてピザ生地のサラダですませたようだ。
ピザは食べたいと言うと、1枚頼んでくれた。
多いので3人で分けて食べようと言ったが、二人で食べろと手をつけなかった。
おごってもらうことを気にして遠慮をしてたいたようだ。



食事を済ませ、ホテルまで送ってくれた。
10:30分。明日は仕事だから、これでお別れだ。
しっかりハグをして別れた。
家庭的に大変な様子だったので、無理をしなくても良いから、
私たちはベネチアかフィレチェに行くからと日本で連絡をしたが、来てくれて2日間付き合ってくれた。
有りがたかった。


10.17 Bologna departure 9:26)((train) arrived Savona 14:41a friend's house lodging
  TRN-9506  BOLOGNA CENTRALE940)・・・・・・MILANO10:45
  TRN 741 MILANO1110・・・・・・SAVONA1326歩いてサバーナの町を観光

1017日(月)

  TRN-9506  BOLOGNA CENTRALE940)・・・・・・MILANO10:45
  TRN 741 MILANO1110・・・・・・SAVONA1326歩いてサバーナの町を観光

朝早めに起床。7時30分にレストランへ向かう。昨日よりもお客が少ない。早いせいだろうか。
食事を済ませ、出発の準備をしてチェックアウトしてタクシーを呼んでもらった。
タクシーは5分もすると来た。9時出発。レシートのようなものをフロントで受け取り、タクシの運転手に渡した。
ちょうどラッシュにかかったのか道路は込んでいた。
途中、交通事故に遭遇。なおさら道路は込んでいた。
バイクに乗った女性が車にぶつかったらしい。道路わきに倒れたバイクのそばに座っていた。
泣いているようだった。
駅に着いた15ユーロ弱だった。700m。
日本からすると料金が高い気もしたが、メーター表示なのでぼったくられて気はしない。
地図上で以前に確認をしていたので、遠廻りではなかった。
最後に1ユーロが加算された。
ホテルの手数料だろうと思った。駅使用料かもしれない。
時間もなかったので、急いで駅に入った。
ホームが分からないので、駅員の人に確認をした、希望の列車番号が分からないので、聞いて確認をした。
列車が着く直前にホームのサイン看板に列車番号が表示された。
940出発。ミラノまで1時間余り。列車は綺麗だった。ビジネス人らしき多くの人が乗ってきた。
あまり観光客はいないようだ。
指定席に座り、ぼーとしていたらミラノに着いた。
しかし15分遅れだった。
ミラノからサボーナまでの乗り継ぎ時間は25分有ったので余裕で乗り継ぎ出来ると思っていたが、10分ない。
下車して列車の先頭まで歩き、発車時刻表の出ている看板を見ると、一番反対側のホームに乗る列車が待っている。
急いで行かねばならないが、ものすごい人ごみなのでリュックを担いだ私たちがなかなか進まない。
ホームについても、自分が乗る号車までが遥か遠い。時間がないので、小走りで急ぎなんとか乗車することが出来た。

2等車なので席も込み合っている。1110出発。



ジェノバを経由してサボなーに向かう。
この列車も遅れた。イタリアでは列車は時刻表通りには運行されないらしい。
ジェノバに着いたのは、私たちの最終目的であるサボーナに着く時間だった。
30分くらい遅れていた。ここでしばらく列車は出発しない。
やっと出発したと思ったらバックをし始めた。進行い方向に進まない。
そのまま列車はスピードを上げて行く。ひょっとしたミラノへ戻っているのではないかと不安になって来た。
そばの人に、チケットを見せると大丈夫だという合図をしたので、少し安心した。
しばらくすると、来る時に見た景色とは違うので、間違いないのだと確信をした。
結局、サボーナに着いたのは、13時26分着予定が40分遅れだった。
駅についてホームを探すと、ビンセントが待っていた。
懐かしい顔だった。
しっかり握手をした。女房を紹介した。
相変わらずビンセントは無表情に見えるが、うれしそうな様子を見せた。
駅を出て駐車場に行くと、黄色いフィアットが駐車していた。
少し小さいけれどと言っていた。
自宅は、車で5分とかからなかった。公園の前の大きな建物の前に車を止めた。
大きな門を開けて入ると、石の階段がありかなりの高級マンションのようだ。
最近付けたのか、エレベーターが着いている。
不似合いであるが必要なのだろう。
ビンセントと私たち夫婦がリュックを担いだまま乗ると狭いほどの広さしかない。
4階にビンセントの自宅があった。大きな玄関を開けると、奥さんが迎えてくれた。
名前はアンナリタ。送ってもらった写真よりもはるかに若い、そして上品な夫人だった。
まず、私たちが泊る部屋に案内をしてくれた。
天井高は4mある。自宅は100u有ると聞いていた。
宿泊の部屋は、15畳くらい有るのではないだろうか。多分娘さんの部屋だと思う。
ベンガラ色の部屋には等身大の牛が書いてある。娘さんの写真が何枚か飾ってある。

 

 



今は、
IKEYAのインテリアデザイナーの仕事をしているらしい。部屋を見せてもらう。
いくつあるのだろうか?入って私たちが寝泊まりする部屋の前は、大きな空間がある。
多分パーティがると、ここが会場になるのだろう。他に居間が二つある。
台所に行くと、ここは食堂も兼ねて有って、テレビも置いてある。
部屋の色は、黄色や緑とハッとするような色彩だ。
昼食をとってなかったので、奥さんが用意してくれた昼食を食べて小休憩後サノーバの町中散策を楽しんだ。
昼食はスパゲッティのような麺(ボナペプート)、パンと豆腐のようなチーズ(ポコチーズ)と
別のチーズ(
BUCATINI ALLA MATRICIANA,ワイン・コーヒを御馳走になった。
15時過ぎ外出して散策開始。

サボーナ市役所

しかし、ビンセントは相変わらず足が速い。追いつくのをあきらめた。
ビンセントに合わせると、確実においてきぼりをくらうことになる。
しかし、ビンセントは気にする様子もなくどんどん歩いて行く。

まず、中心部にある教会に入る。

 

  

大きくはないが歴史を感じる重厚感がある。ビンセントの話しを聞くと西暦1500年ころに出来た教会らしい。
教会の中は撮影禁止のようだ。あきらめていたら、ビンセントが神父に交渉してくれた。
彼はプロだから、撮影を許可してくれと言ったみたいでOKが出た。
フラッシュは使わないようにということだったが、途中でOKが出た。
しかし、フラッシュを使うと雰囲気が壊れるので使わず撮影を続けた。




 
  
会議場のような場所があった。
説明を受けたが、理解できなかった。
想像するに、議会かもしくは宗教裁判等に使われたのではないかと思われる。
50以上の黒光りする木製のイスが並ぶ。

  

 

その後、今度は海岸線に向かった。

すぐに海岸線に出た。古い城壁が見える。ここに向かう。




 

 

 

 



ちょっとした丘に立っている。サボーナは古い地中海に面した繁栄地だった。
城の展望台に上がると、大きな観光船が出航していた。
アフリカに向かうらしい。観光客はいないので静かだ。二人連れが海を眺めていた。寒くなるので戻ることにした。

もうひとつの教会に行った。入り口には、物乞いがいたが無視をした。ヨーロッパにはどこにでもいる。
中に入ると、中にはキリストの最後を表した彫刻があった。生々しい。
もうひとつの教会にも行った。
   

 



大きくはないが、教会がたくさん有り、大切にされているのが分かる。

 

  

  

町を歩いていて、コーヒーでも飲むかということになり、BARに入った。
エスプレッソを頼んだ。立ち飲みだ。



女房も座りたかったようだが、ビンセントはお構いなしにカウンターで飲んだ。
所要時間は数分。
さあ出ようと言う。エスプレッソも本の数センチしか入ってないので、あっという間に飲みほしてします。
孫がフェラーリを欲しがっていると言うと、おもちゃ屋さんへ連れて行ってくれたが、お目当ての赤いフェラーリはなかった。
次に、靴の修理屋さんへ連れて行ってくれた。
高齢の職人さんだった。


サボーナの街中に有った靴修理職人

名前は
ODELLO ADALGISO(オデーロ・アダジソ)写真撮影許可を撮ってくれたので、数枚撮った。
靴屋さんかと聞くと、違う靴の修理屋(
CALZOLAIO)だとプライドを持って答えた。
頑固な人なのだろう。


 

果物屋さんの前で、果物の説明やジャムを作る種類の果物を説明してくれた。
ヨーロッパの人は、ジャムやチーズなどを手作りするが、ビンセントの家でもほとんどが手作りのようだ。
フェラーリを買うなら、COO
Pがあるので行ってみようという提案があり、10分くらい歩いて行った。

途中の川を見ると、水は流れてなかった。ここ数カ月雨がないそうだ。



駅のそばにあるCOO
Pに行った大きなスーパーだ。
専門店とスーパーが一緒になった施設で、日本とほとんど変わらない。
おもちゃ売り場があったので、探してみると黄色いフェラーリとランボロギーニがあったので買った。
一応満足して帰ることにした。
ビンセントがクリスマスに赤いフェラーリを送ってやるからと慰めてくれた。
自宅に戻った。奥さんのアンナリタが食事を用意していてくれた。
ハムを調理したもの、ジャガイモを砕いて表面を硬く焼いたもの、ローストビーフ、パンとチーズとワイン。

 

 


手作りで美味しい。ビンセントも調理を手伝っていた。
夕食後、お土産をプレゼントした。
 

福を持った招き猫。箸、タオル。ハンカチなど「グラーチェ」と奥さんは喜んでくれた。
日本文化が好きなようだ。
むすめさんはベネチアの近くに住んでいるということで、今回は会えないとあきらめた。



娘さんの写っているIKE
YAのポスターが台所に貼っていた。
10時過ぎに部屋に戻った。
洗濯物がたまっていたので、洗濯機を借りて洗濯。
いつも間にかアンナリタが干していてくれた。

1018

Savona a friend's house lodging 電車でジェノバへ出掛ける

8時10分朝食とビンセントが言っていたので、早めに起きて準備をした。
シャワーも浴びたいので、暗いうちに起きた。
7時ころになると、空が明るくなる。窓を開けると公園が見える。そろそろ出勤の人たちの姿が見える。




定刻にビンセントが迎えに来た。
朝食はエスプレッソとパンとケーキ、自家製のマーマレード。

9時前に出発。やはり定刻にビンセントがノックをした。女房も準備が出来ている。
天候は曇り、この旅で初めて雨の予想が出た。駅まで歩いて10分。
ビンセントに追いつけない。駅の中は、最近改築されたのか、近代的に出来ている。



チケットを買ってホームに入るが、その前に通路にある機械にチケット通して検札を行った。
これをしていないと、車内で罰金をとられるとガイドブックにお書いてあった。
9時8分発の列車は普通便なので各駅停車。いろんな世代の人も乗って来る。学生、通勤など様々。
観光地としては有名ではないので、観光客の姿は全くない。
もちろん日本人の姿もない。1時間くらいでジェノバに着いた。
ジェノバの町には、駅はいくつもあるようだ。

1.    CHIESA DELLA COMMENDA

2.    CHIESA DELLA ANNUNZIATA(キエサチャーチ デラ アンオンツィアタ)(STILE BAROCCO)

3.    ドルジェ ベニスの頭主

VICO()細い道  びっこり(多い)

セントラーレと言われる駅かどうかはわかないが言われるままに下車した。



ビンセントは、ひたすら教会に連れて行ってくれた。
途中は下町を抜けた。
私たちを見つけて地元の人は、珍しそうにみる。目で挨拶をする人もいる。
多分ビンセントがいなかったら、恐ろしくて歩けないような町の路地も歩く。
教会も小さなものからびっくりするほど大きなものまである。
町角には、キリストを飾った祭壇のようなものがたくさんある。
バリ島やネパールにも同じようなものがあった。
宗教は違っても人間の心は同じようなものなのだと思った.
日本でも路地の隅にはお地蔵さまがあるのと同じなのかもしれない。
教会の中は、出来た時代が違うのか様式がずいぶん違う.
この辺りは、1500年という言葉出てくるので、繁栄したいたころに作られたものに違いない。
教会の一角には、キリストが十字架から降ろされた姿をリアルに彫刻し彩色したものが安置されている。







マリア様も多くある。
昔の語族が競って寄進したのだろうか。町の中に出ると、町角にはユニークな絵が描かれている。
有名な人らしいが、誰だか分らなかった。
とにかくビンセントは、いろいろなものを見せようと町中を歩きまわる。
追いつくのがやっとで会話をするひまもない。そのことを本人は、全く気にしている様子もない。
必要な場所に来ると英語かイタリア語かよくわかない言葉で説明をしてくれる。








ものすごく大きな教会に入った。すごいとしか言いようがない。







こんな大きな教会を1500年代に作ったのかと驚くばかり。
天井の絵も圧倒される。
柱の様式も他の都市とは違う。天井まで高さはどのくらい有るのだろうか?50m以上はあると思う。




次に建物が世界遺産登録になっているオフィス街に行った。
世界遺産と言うだけあって重厚な古い建物が立ち並ぶ一角だった。
しかし、すべてが今も使われている建物ばかり、そしてほとんどが銀行でった。
一部ぎゃらりぃもあった。









中は古い建造物や壁画を残しながら近代的な内装も加味した不思議な空間。
天井も高く、柱にも彫刻が施されている。銀行だけあってセキュリティーもしっかりしている。
ビンセントはお構いなしに建物の中や庭に入って行く。
人がいると交渉をして入れてもらう。
しかし、ビンセントは黙々と歩く、休憩というものがないようだ。









また、教会に入る。





ここにもキリストが十字架から降ろされた彫刻がリアルに作られ照明がされてある。


外に出て、町中に戻り、噴水のある広場に出た。




VIAと呼ばれる路地がたくさん有り、人々が歩くのが面白い。
すでに景色は秋になり、ダウンジャケットを着ている人が多い。
路地にはダウンジャケットだけを売っている店もある。
ビンセントもダウンジャケット指さしたので、この店で買ったのかもしれない。
また、別の教会に行ったが、昼の休憩に入ったようで中には入れなかった。
15時まではお休みのようだ。



まわりは古い建物が並ぶ。どちらを見ても写真の被写体になる。
教会の入り口には、2頭のライオンの像が守っていた。



路地を歩いていると、昼になったのでビンセントが何か食べるかという。



ピザが食べたいと女房が言うと、小さな店に入り作りたてのピザを希望の大きさに切って買ってくれた。
横のカウンターで食べるのかと思っていたら、紙に包んでもらい外に出た。
どこで食べるのか聞くと、歩きながら食べるのだと言う。
飲み物もない。
女房は驚きながらも歩きながらピザをほうばって食べた。飲み物はどうしよう?と日本語で言う。
路地には道端の石のベンチに座って食べてる人もいる。
これが普通なのかもしれないと話した。
しばらく違う街並みを歩いたが、天候も悪く小雨もあったので、そろそろ帰ろうと言うことになった。
帰りは来た時とは違う駅だった。
一駅向こうまで歩いたようだ。



駅の中の店で何か飲むかと言われ、やっと朝食以来のドリンクにありついた。
カウンターでビールを飲んでいる間に、ビンセントはチケットを買いに行った。
ビールが出て来て飲もうとしていたら、ビンセントが戻って来て、ビールを持って行こうと言う。
列車が出るので急げと言う。
走ってホームに向かい飛び乗った。列車の中でビールを飲む。
ビンセントは飲まない。
本当に、彼らは水分をとらない。トイレにの行かない。
1時間ばかりでサボーナに着いた。ついでに、2日後のミラノ行きのチケットを買った。
2等指定席。
イタリアの2等は結構込んでいるので、フリーチケットでは座れない可能性がある。
ここで、ビンセントとは別れて、二人でサボーナの町を散策することにした。
昨日行ったCOOPで買い物をしたいと言った。
COO
Pまでは歩いて15分弱。
ぶらぶらしながら歩く。
COO
Pで小腹もすいていたので、休憩を兼ねてピザとビールを食べた。
日本のスーパーなどにある食堂。
時間帯もありお客さまもいなく閉店している店もあった。
食事後、1階のフロアーの商店街を歩き、孫の永愛チャンの洋服を買った。
そして、2階に上がり昨日フェラーリを買った場所にも行ったが、すでに売り切れていた。
水分が欲しいので、ペットボトルを1本買った。
レジに行くと大量に買い込んだ人たちばかり。
私たちは1本のペットボトルを買うために15分くらいレジに並ぶ羽目になった。
あとは、女房が商店街でショッピングしている間は、階段のそばのベンチに座っていた。
どこでも同じだろう。
年配の人たちが集まってしゃべっている。
何をしゃべっているのかは分からないが心地よいイタリア語が子守唄のように聞こえる。
20分くらい待っていると女房が戻って来たが「馴染んでるじゃない」と言った。
私は、どこの国に行ってもすぐに環境に慣れるので違和感を感じることはない。
カメラマンの特性だと思っている。
2階の通路で、誰か倒れていた、老人が通路で滑って転んだ拍子に頭を売ったようで、血を流していた。
周りには店の関係者らしい女性が二人介護をしていた。
少し動いたので、亡くなってはないようだが、しばらくして救急車が来た。
私たちは、ペットボトルを1本持ってビンセントの家に向かった。
15分くらいある。途中、川を渡るが水は全く流れていない。5月頃から全く雨が降ってないと言っていた。
乾燥し切った川底の砂が見えた。
自宅の前に着いて、ビンセントに電話をしたが、留守電になっていた。入れない。
入り口の部屋ベルが分からない。
ベルは着いてるが、名前が読めない。
知っているビンセントの名前もない。
しばらく前の公園のベンチに座っていたが、暗くなり寒くもなったので、再度電話を
すると、今度は出た。
すぐに1階のドアが開いた。
夕食を2人が作っていた。





ンナリタは、全くと言っていいほど英語が話せないけれど、イタリア語でバンバン話しかけてくる。
来上がりを待っている間に、持って来た千代紙で鶴を折ってプレゼントした。

思議さと驚きをもって見ていたが、完成すると「グラッチェ」と言って大喜び。

折り方を教えたが、うまくできなかった。
手先の器用さは日本人にはかなわないようだ。
2羽折ってあげた。
女房は、もっと叮嚀に折るように言う。チェックが厳しい。
ビンセントは、ライオンを折ってくれと言ったが、私はおれないと言った。
どこで習ったのか?学校に行ったのか?と聞かれた。
広島の人は、子供のころから自然に覚え、1000羽作って祈願する習慣があると話した。
台所で話しをしながらテレビを見る。
テレビでは、料理番組で日本食を作っていた。笑うような料理も出て来た。

今夜の手作りの料理は、生ハムと野菜を入れ外をピザのよう生地で包んだもの。
アンナリタとビンセントのご自慢の料理だ。
食事後、ビンセントの巡礼の資料を見せてもらった。
写真やサンテァイゴでもらった証明書。ビンセントは4枚持っていた。



どうも2003年が最初のようだ。計算によると1年おきだ。
昨年、一緒に泊ったアルベルゲの女性と親しく話していた理由が分かった。
今回の旅で、二人のショットは、奥さんの手前もあるのでプリントして持って行かなかった。
奥さんは、日本に興味を持っているようなので、私が持って行った、10年以上使った般若心経の本をプレゼントした。
薄汚れていたが、理由を話すと喜んでいた。
般若心経を読んであげると静かに聞いていた。
明日は、フランス国境の古い町に来るまで行くと言うので、早めに就寝することにした。


1019

Savona a friend's house lodging) 車でフランス国境の古い町へ行く。帰りはリゾート海岸を走る

8時30朝食、9時出発。
ということで準備をした。時間通り、ビンセントはドアをノックした。
朝食時、まだ、アンナリタは寝間着に羽織もの。
美味しいエスプレッソとパン。
9時出発なので急いで部屋に戻り準備をした。
5分前、ビンセントが来て、15分ほど待って欲しいという。
理由を聞くと、アンナが化粧をしているというジェスチャーをした。
我が家でも同じだと言うと。オールワールドかと言って笑った。
結局、9時30分に出発した。アンナは外出用に化粧・衣装もコーディネートしていた。
駐車場に行きフィアットで出発。


ビルチェ・アクアに向かうと言う。古い町としか聞いていなかったので、どんな場所かは見当もつかなかった。
サボーナの町からジェノバとは反対の方向に向かって走り出した。
途中高速道路に乗った。150kmくらい離れた場所だという。
1時間半ばかり走り、有名な町サンレモを眼下に見ながら通過。
しばらくして一般道に出て、海岸線にでた。
リゾートらしくホテル別荘などがたくさんあった。ここから山に入って行く。
30分くらい走って静かな町ドルチェアクア
Dolceacqua( Sweet water)に着いた。
川辺の駐車場に車を止めて、歩く。数分歩くと教会があった。



 

中には入ることはなかったが、そのそばの細い路地を通って坂を登る。
上には古城がある。タイムスリップしたような錯覚を覚えるほど、古い迷路のような道を登る。
保存地区なのだろうか途中にお店もあるが、観光客相手のようだ。
しかし、人が住んでいる様子であった。
オフシーズンなのか、観光客はほとんどいない。

   





途中、豆を食べろという店が路上にあった、美味しい豆であった。
帰りに買うからと言って登って行く。
ビンセントが先導するので、必ずビンセントが写るので、出来るだけ誰も写らないように配慮して撮る。
記念写真も並行して撮る。
15分くらい登ると、街並みが途切れた。
ここから上は畑のようだ。
城への入り口は閉鎖してあったので入ることは出来ず、引き返す。
帰りは少し違う迷路を歩いたが、結局、さっきの豆屋さんの前に出た。
良い場所に店を出している。
一袋購入して下って行った。

 

川辺に出て川沿いに登ると、橋があった。
手前には歴史を絵にしたようなレリーフがあったので、3人の記念写真を撮った。
橋の上から古城を背景に記念写真も撮った。


 





車に戻り、帰るのかと思っていたら、川上に登って走る。
かなり走ると標高はどんどん上がって行く。
そして、山の頂上には町が見えて来た、谷の反対の山の頂上にも町がある。
昔、戦争時代に敵が攻めてこないような城壁国家が乱立していたのがよく分かる。
一つの町に入ると、BARとかホテルがある。アプリカーレ(
Apricale)。

 


  

ここも避暑地というか観光地なのだろう。
駐車場に車を置いて、登ることになった。
一番上には必ず教会がある。大きな塔が見えていた。ここも細い石畳を登って行くと、広場に出た。
カフェがあるがお客は誰もいない。
教会は修理中で入れなかった。
広場で記念写真を撮り、トイレを探したがカフェを使わないとダメらしく、二人は憮然とした態度で下山をしようと言った。



 
ヴィンセント・アンナリタ・キヨエ・タカオ 古城にて


どんな会話だったか分からないが機嫌が悪くなっているのが分かった。
ぶらぶら下り、下の店に入った。エスプレッソを頼み、みんなでトイレを使った。
所要時間は数分。コーヒーを味わう暇はなかった。
外に猫がいたので撮影。

 

ビンセントも奥さんがいると、少し様子が違っていた。
駐車場に戻ると、ここで昼食にしようとハムを挟んだパンを出してくれた。
パンは固く苦戦をしているのを見て、アンナが捨てなさいと言った。
無理をして食べる必要はないと言った。
 

食べているのを捨てるのは、日本スタイルにないからと、全部食べた。
飲み物はなし。立ったままの食事であった。ここから、また登って行く。
谷の向こうにある町に行くのかと思っていたが、どんどん離れて行く。
谷が違う。谷は深く、もうあの町に行くことは難しいようだ。
30分くらいくねくねと傾斜のある道を登って行く。標高は900mくらいはあると言っていた。
もうフランス国境に近いと言っていた。
ビンセントによると、今から行く町はドイツ人が住んでいると言うことだった。
バヤルド
(Bajardo)本当に高い山の頂上に町が見えて来た。
山の右を登っていた。左に左に行くと突然町が山の上に現れた。
町に入ると案外大きな町だった。
今までのように狭い道というわけではなく、バスが離合出来るくらいの広さはあった。
高度があるためか、かなり寒い。
冬である。山もかなり紅葉していた。
しかし、日本のように美しい紅葉とはかけ離れていた。
ビンセントが車を置いている間に、近くの教会に入った。

ピンク色のかわいい教会だった。

   

  

中は薄暗かったが、信仰を感じる素敵な教会だった。
マリア像がセンターにキリストらしき赤ちゃんを抱いていた。
なかなかビンセントが来ないので、BARに入ってみたがいない。
外に出ると、ビンセントは頂上へ向かったと勘違いして登っていた。
戻って来たので合流して、再び頂上を目指した。
上は、一転して狭い石畳みを登ると教会があった。地震で天井は落ちてしまい廃墟となっていた。

  



ここから遠くを見ると、海が見えるアルプスが見えるとビンセントは言った。
海は見える。

 

雪をかぶった山が見えるが、スイスのアルプスではないようだ。



かなり寒い。
先ほどのレストランへ入った。トイレを借りるのもあったが、イスに座りビールを一杯飲んだ。



レストランなので女性スタッフは機嫌が悪そうだったが、
オーナーは話し好きで
ビンセントと何か話していた。
店内の野菜などが綺麗だから写真に撮るように勧めた。



暗いので撮影は厳しかったが、なんとかフラッシュ・フラッシュなしで写真を撮った。
アンナリタが写真を撮って欲しいと言う。
テーブルに座ってアップで撮った。年齢はごまかせない。
特に首に年齢が出てしまう。
いろいろテクニックを使って撮ったが、本人は恥ずかしさもあって気にいらない様子だった。
十分に修整をしてねと笑いながら言った。



トイレに行くと先約がいたので、座って待っていると勘違いをしてみんなどんどん先に入って行く。
しかたないので、強引に入る。
出てくると老婆が待っていた。
目で挨拶をして座席に戻った。女房も続く。
店を出てから帰還するこちになった。
同じ道を戻るのではなくそのまま山を越えて海岸線に出た。かなりの勾配だった。
帰りは、高速道路を使わないで、一般道を走った。サンレモの町も通過した。
道も日本よりも広いように感じた。海岸線は、観光地で一杯。
ずっと町が続く。ピンクの壁にベンガラの屋根。高い教会の塔がある。
ビンセントは、写真を撮りたいところがあれば、止めるからと言ってくれたが、
私のカメラマンの血に火をつけると帰るのはいつになるかわからいので、止めなくても良いと伝えた。



天候も悪く写真を撮っても仕方ないと思ったこともある。
高速道路に比べるとかなり時間がかかる。ビンセントも疲れた様子が見える。
無理をさせてはいけないと思った。
途中から高速道理に乗ってサボーナに着いた。夕方になっていた。
自宅に戻ると、ビンセントの娘のイラリアがベネチアの近くのパド
-ヴァから戻っていた。
戻って来ると言うのは、昨夜聞いた。楽しみにしていた。
イラリアは有名なIKEYAのインテリアデザイナーの仕事をしている。
女房がIKEYAの大ファンなので会えることを楽しみにしていた。
宿泊している部屋には、イラリアの写真がたくさん飾ってあったので、本人を見た時はすぐに分かった。
夕食を一緒にした。
鶴の折り方を教えてほしいと言うので、目の前で折り、それから一緒にそれぞれ折った。
さすがデザイナー、呑み込みが早くすぐに折れた。
手先が器用だ。
ビンセントが何をしていたのか知らないと言うと、聞かなかったからだと言われた。
op of Police だと言った。
本当はローマに住んでいて
イタリアのいろいろな町を転勤して、一番気にいったサボーナに住むことにしたという。
アンナのお母さんは、今でローマに住んでいた、1か月に1回。ローマに行っているらしい。
息子のリカルドは学生で学校に、娘のイラリアは
PADOVAに住んでいる。
ビンセントは警察署長なのだと言うことが分かった。



若いころの写真を見せてくれた。
フランコ時代なのか、軍服のような制服を着ている。
道理で時間に厳しく、早足なのだ。
しかし、奥さんのアンナも負けていないほど対決している。
良い組み合わせの夫婦だ。
その後、みんなで記念写真撮影。
ビンセントの三脚を借りて撮影。


ビンセントの自宅にて
イラリア・ビンセント・アンナリタ・キヨエ・タカオ


ピンクの部屋なので赤かぶりがひどかったが、あとでなんとかするつもりで撮った。
最後は、昨年ビンセントにプレゼントした四国遍路の時の傘を出して来て、二人で記念撮影。
傘は綺麗に修理してあった。
てっぺんが破れて穴が開いていた箇所はレザーを切ってふさいであった。
その時に、傘を受け取った時のいきさつを聞いた。
最終地点のサンティアゴで受け取ったとは聞いていた。
本当はビンセントとエンツォは面識がなく、ビンセントはスピードがあり、エンツォはスピードがなく結局3日遅れになったそうだ。
同じころに歩いていたバレリアに電話番号を聞いて連絡をして会った。
ビンセントは3日間、サンティアゴで待っていたそうだ。
そんないいきさつがあったとは知らなかった。
11時30分部屋に戻って就寝。


1020

Savona departure train arrived in Milanohotel stay ミラノ市内を観光 夜は巡礼仲間と最後の夕食
   TRN-663 SAVONA(1033・・・MILANO(12:50)

7時30分に起床して出発の準備をする。
9時朝食。食堂に行って鶴をおり、イラリアに教える。10時過ぎに自宅を出発した。
アンナとイラリアは自宅でお別れした。
ビンセントは駅まで車で送ってくれた。
ホームで硬い握手とハグをした。
平静を装っていたがビンセントもなんとなく涙っぽい。
我が家に来てくれて幸せだったと言ってくれた。
私は、来年日本でと言った。ビンセントも昨夜も、日本の事情を盛んに聞いていた。
東京から広島までレンターカーで行けるかとか?
ホテル代はどのくらいかとか?京都にも行きたいらしい。
京都の様子を聞いていた。
ビンセントは、キャンピングカーを持ってシリア方面を1300kmも旅をしたそうで、
運転には自信がありそうだった。
ただ、日本は、すべてが右左が反対なので、運転は非常に難しいと助言をした。
東京などは、私も恐ろしくて運転は出来ないと言った。

10:33分発。チケットは購入していたので、問題はなかったが号車の停車位置が分からないので、
ビンセントに聞くとこのあたりだと言ったので、待っていたが入って来た列車の番号は大幅にずれていた。



そのまま乗車して、車内を移動して自分の座席のある場所に着いた。
やっぱりしての場所には、他の人たちが座っていました。
年配の女性とアラブ系と思われる若いカップルと男性。
チケットを見せると知らんぷりをするので、再度見せるとこちらに座ればと反対側の席を指示した。
男性は窓側を譲った。窓際に女房を座らせ私は真ん中に座った。
カップルは離れたくなかったのだろうくっついて寝たままだった。
ジェノバでしばらく停車したのち、バックをして今度はミラノに向かった。
窓際の女性は、途中で下車した。女房はすぐに移動した。
ミラノに派2時間ばかりで到着した。
1250ミラノ駅に着き、車両の一番前に待つアルドたちと合流した。
アルド・奥さん。
ミレーネも一緒に来ていた。
アルドしか来ないと思っていたので、少し驚いた。
ミラノ駅を出た。考えてみれば私たちは、ミラノ駅を出るのは初めてだった。
ミラノ町は、全く知らないのだ。
中継駅としては、何度か来たが出ていなかった。
駅の外に出るとミラノの町は秋も深い風情になっていた。
最初ミラノ付近に着いた時は、暑く30度を越していた気温も10度を超える程度になっていた。
リュックが重いので少し歩くと汗をかくが、セーターは必需品だった。
今晩宿泊する宿を駅の近くに頼んでおいたので、まず荷物を置きに行くことにした。
その前に、アルドがマルぺランサー空港に行くバスの出発場所を確認してくれた。
駅の横、タクシー乗り場の向こう側だと教えてくれた。
本でバスの種類を確認していたので、あまり心配はしていなかった。
15分くらい探してホテルに着いた。
昨年、巡礼の時に泊った巡礼宿に似ていた。
アルベルゴと書いてあったので、多分そうなのだろう。
女房にとっては、びっくりするようなひどい宿だった。
3階に上がると小さな受け付けカウンターがあり、オーナーのような男性がいたのでチェックインをして部屋に向かった。
もう2階上がった部屋だった。
鍵を開けようとしたら開かない。チャレンジしていたら中から女性スタッフが出て来た。
慌てた様子で出て行った。
昼寝をしていたのか、着替えていたのだろう。
隣に入りしばらくすると出て降りて行った。
狭い部屋だ、暗い。
今までのホテルに比べると、比べようもないほど貧弱だった。
料金は、いままでは一番高い。
二人で90ユーロ。駅に近いので仕方ないと思うが、女房は不満を言う。
トイレと洗面台を確認したが、シャワーがない。
フロントに言うと、よく見てみろと言われた。



そのまま、みんなと外出して帰って確認をすることにした。
まず、昼食を食べたいと路上のカフェでサラダと飲み物を頼んだ。
サラダの上にレタスのみ、パンが3
-4切れのみ、ビール、5人で52ユーロ。
さすがにミラノは高い。
しかたない。
昼食後、まず、ダビンチの最後の晩餐を見に行くことになった。



サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。なかなか手に入らないチケットだったが
旅の始め、ミラノを出発する時にアルドに頼んだら途中で
OKという返事が来たので、
てっきり大丈夫と女房と喜んでいた。
他の人は入らないと言うのでてっきり予約が出来ていると思った。
メトロを出てしばらく歩いた。
路面電車が走っている。古い都会という雰囲気を漂わせている。
大きな教会の横にダビンチの絵が飾ってある場所があった。
食堂の壁に飾ってあるのだと聞いた。



受付に行くとものすごい人たちがいたが、チケット売り場には、ソールド・アウトになっていた。
アルドが申し訳なさそうに「すいません」と言った。
私は、この言葉で理解できた。
しかし、女房の失望は大きく、なかなかおさまらない。
アルドの住むメラーテは30kmも離れた町。田舎町なのだ。
相当強力なルートがなければ購入は難しいだろうと思っていたのが、
あっさり
OKと言ったので不思議に思っていたが、やはりそうだったのだ。
アルドが悪いのではなく急に頼んだ私たちが悪いに決まっている。
気にするなとアルドには言ったが、生真面目なアルドも落ち込んでいた。
隣の教会に入り気分を落ち着かせるために時間をかけてサン・ロレンツォマッジョーレ教会の中を見ながら写真を撮った。

  

  

  

  



古い教会ではあった。黙々と写真を撮った。
一旦外に出てから裏手からも入り、中を見学した。


実物が見れなかったので、木に描いた絵を買った。


  

20ユーロ。
それからまた、町中をかなり歩き、城壁に囲まれた城に行った、大きな城壁だった。
スフォルツァ城。



通過すると数百メータ先には、凱旋門のような建物が見えたが、引返した。

   

次の場所、ドウォモへ向かった。

 

 

 



町の中を歩いてやっと到着。大きな教会。
有名なのだろう。
勉強をしていなので価値がよく分からない。
とにかく大きい。



広場には大勢の観光客とハトがいた。太陽の光線が良いので5分ほど待って太陽が当たった教会を撮影した。




ミラノにて
キヨエ・アルド・ミレーナ・パテリシア・タカオ


歩いて教会に向かっていると、前を歩いていた女房に男性が近づき、手をつかんで上にあげた
。何をしているのかと思った瞬間。女房は手を払って、手に持っていたものを地面に捨てた。
男は慌てて再度女房の手を持とうとしたので振り払った。
口笛を吹いている。餌を売りつけるか、スリだと思った。
しかし、振り払われて男性はどこかに行った。と思った瞬間、私の左手に何かがふれたと思ったら、
手の中にはハトの餌のトーモロコシが入っていた。
神業としか言いようがないほどの早業だった。
私も、すぐに手を振り払いトーモロコシを捨てた。何か男が言って来たが無視をして行くとついては来なかった。
観光客にとっては、一番危険な場所だった。
おもわず、財布を確認したが無事だった。
そのまま、教会の入り口に向かった。
入り口では警官風の男性が2名、センサーを持ってチェックしていた。私たちは別に問題なく、そのまま通過できた。
教会の中は、大きい。

  

  

  



ステンドグラスも美しいし光を出している。彫刻もたくさんある。
古典的な教会ではここが一番大きく荘厳であった。
床もいろいろな石を使って模様が書きだされている。





多くの信者さんがお参りしているのが分かる。写真も気分的には撮りにくいがチャレンジ。



教会を出てから、少し歩くとミラノ有名な場所。
紹介されたりする時はミラノはここ。

  

ヴィットリオ・エマヌエーレ
2世のガッレリア。
丸い天井窓があり、古い建物にグッチなど有名なブランドが店を並べている。
女房は買い物が出来ないストレスに襲われ、すこぶる機嫌が悪い。
途中に買い物をさせないで、最後の日のミラノで十分させるからと約束をしていたが、
アルド以外にも来てくれたので予定が狂った。
せめて、ここで時間を作るからと言ってしばらく解放した。
イタリアの連中は、笑いながら、タカオ大変だよと言っている。
見るだけらしいからと言う。
どこに行っても修理中が目立つ。この通りも道路のモザイクを若い女性が修復をしていた。
形に削ってはめ込み、グラインダーで平面をとる作業だ。
一角に模様があり、ここで1回転すると降伏が来ると言われているらしく、
みんな回転をして、それを写真に撮っている。
女房にも同じようにしてもらい、記念写真を撮った。

  

アルドがいうには、近所にフェラーリ専門店があるというので連れて行ってもらった。



200mくらい歩くと、真っ赤なフェラーリのカラーの看板があり、レース用のフェラーリが展示していた。

  

入り口には黒人のガードマンが立っている。
すべて黒づくめだ。
威圧感を感じる。恐る恐る場違いの店に入ると、グッツがたくさん売っていた。
孫の颯太くんのために何かをゲットしようとするが、全体に高い。
フェラーリのミニチュアが適当な価格で売っていたので、即購入。
9.9ユーロ。
他に地下には子供用の洋服なども売っていたが、目の毒なので女房をつついて早々に出た。
写真はバッチリ撮った。
ガードマンに何か言われるかと思ったが、見ても別に何も言わなかった。
広場に戻る途中に、有名なデパートのような店があり、そこに入った。
せめて女房に買い物の時間を作らないと大変なことになる。
地下のカフェに入り、1時間したら戻るように言った。
1時間は不服のようだがみんなをこれ以上待たせるわけにはいかず。
苦渋の決断。
カフェではエスプレッソを頼んだが、量は一口。アッと言う間になくなりただ、ぼーとするだけ。
さすがにアルドもいずらくなったのか、最上階に上がってみようと誘ったので、女性群を置いてエレベーターで上がって行った。
各フロアーを見る限りデパートだった。
最上階は数件の飲食の店が入っていた。
アルドはテラスからのライトアップされた教会を見せようと思ったらしいがパーティーのために行けなかった。



エスカレーターに乗って降りたら、外に出た。深夜用に外部と繋がったエスカレーターだった。
また、中に入り地下のみんなが待っているカフェにもどったら、すでにカップは下げられていたので、いずらくなり出た。
30分近くあるが仕方なく店の中を散策していた。
私はその場にいなくてはいけないので、立って待つ。
それでも時間が立たないので、電話したが留守電になっている。
1時間後に電話があり今終わったと言う。
トイレを探しているが見つからないと言うので、最上階の7階にあるからと言っておいた。
1階のエレベーターの前で待っていると5分くらいした降りて来た。
女房は時間のなさを嘆いていたが、待つ身は長く感じられた。
やっと自分のための記念品を見つけて買ったらしい。
スワロフスキーのネックレス101ユーロだったそうだ。
8時にホテルのそばのレストランで最後の晩餐をすることになっており、アルドが予約をしてくれていた。
メトロに乗ってミラノの駅まで行き、また、歩いてレストランまで行った。
着いたのが、7時40分ころ。店の中は人がいるが鍵がかかっていて入れない。
8時にならないと入れてくれないようだ。
外で待っていると他のお客も来てドアをバタバタするが、いっこうに開ける様子はない。
8時数分前にやっと開いて入ることが出来た。
中に入り注文をする。前回の事があるので慎重に頼む。
アルドもよく聞いて注文をしてくれた。最後の晩餐を楽しんだ。
途中から、ミラノ在住のミレーナの女友達が来た。
昨年一緒に歩いたかもしれないと言うことだったが、記憶があるようなないようなはっきりしなかった。
ミレーネの話では、スクランブルはなかったと思うと言っていた。
だんだん、会ったような気もしてきたが、言葉が通じないので、それ以上会話が進まなかった。
夕食も終わり、帰宅の時間が迫って来たのでみんなはメラーテに向かって帰るためにミラノ駅に向かう。
私たちとは反対の道になる。
アルドは,気を使って50ユーロを私に手渡した。
ミレーネは20ユーロを渡した。心苦しかった。
11時前、ここでお別れだ。
みんなと握手をしてお別れを悲しんだ。
アルドともハグをして、今度は日本で会いましょうと言った。
そして、アルドから預かった田辺さんたちにアルどの自家製ビールを渡す約束をした。
さようなら。
ホテルに戻り、部屋を確認。シャワーを探した。
ここかと開けてみると、タンスだった。
トイレのある部屋に行き、よく見るとトイレと洗面台の間の壁にシャワーがついていた。
床に水がはける口がある。
これだ。しかし、トイレも洗面台も仕切るカーテンもないので、シャワーを使うとへや全体が水浸しになってします。
ひどいと女房は驚くばかり。
私は、中国やネパールで体験しているので、それほど驚かなかったが、今までのホテルとのギャップがひどすぎたので驚いたと思う。
とにかく寝るしかない。
部屋にはテレビもない。
 

ドゥオモ:イタリア最大級のゴシック建築。1386年に、ミラノ領主であったヴィスコンティ公の命によって着工され、
500
年かけて、1887年に完成した。
頂上部に建つ黄金のマリア像は、ミラネーゼの愛郷心の象徴とされるもの。内部の装飾も、息をのむ荘厳さだ。


10月21日(金)

Departure Milano 11:20 22 Narita arrival 9:35

SAS Scandinavian Airline SK 1686 Class T

   21OCT 1120 DEP  Miranomarupensa MXP A-GATE 16DE
  21OCT  13:25  ARR Copenhargen  CPH
SAS Scandinavian Airline SK 983  Class T C33 33DE
   21OCT 15:45  DEP Copenhargen  CPH
   22OCT 09:35 ARR New Tokyo International AirportNRT

6時起床。10時33分の飛行機に乗るためには8時には空港についておきたい。
ミラノ駅からバスで50分と聞いている。
シャワーを浴びてから朝食を食べに行ったが、まだ、スタッフは寝ていて7時30分でないと食べれないと言う。
間に合わないので朝食はあきらめた。
まだ、外は暗く危険を感じたので、出来るだけ明るくなるのを待って、チェックアウトをして
750に出た。
朝食は食べれそうな雰囲気はあったが、もしもと言うことを考えて行くことにした。
バス停までは、重いリュックを担いでいるのでゆっくり歩く、それでも女房は遅れる。
広い道まではとにかく急がないと危険だからと催促する。
女房は機嫌が悪い。
バス停についた。



本に掲載してあったバスが待機して、観光客がどんどん乗っている。
バスは15分おきぐらいに出発している。
荷物はバスの下にある荷台に乗せてバスに乗る。
アフリカ系の黒人が多いので不気味ではあったが、気にせずにいた。
バスは空港に到着した。
第一と第二ターミナルがある。第一と記憶していたが心配。
間違うと戻るのは難しい。
第一ターミナルについて、チケットを出そうとしたらない。
入れておいた場所予約表がない。
慌てた、ますます女房は機嫌が悪い。
建物の中の隅で、リュックを空けて調べる、どこにもない。
最悪受け付けで言うしかないが、言葉が通じるだろうかと頭によぎる。
まさかと思う、リュックの上の袋を開けると、そこにあった。
昨日、観光に出るときに、なくしてはいけないとわざわざその場所に入れた事を忘れていたのだ。
女房に散々文句を言われた。
リュックは鍵が十分ではないので。
10ユーロ支払って、ビニールでぐるぐる巻きにしてもらい、シールを貼って封印をしてもらう。
2個をしてもらい受け付けカウンターに持って行き無事チェックインした。
飛行機は、整備で出発が遅れた。
コペンハーゲンまでの2時間半のフライトだ。コペンハーゲンでは、2時間のトランジットがある。
出航審査を済ませてから食事をとることにした。
行くときに食べ損ねたタイ料理をビールと一緒に食べた。
結構お腹がいっぱいになった。
搭乗すると案の定食事が出たが、私はパスした。
また4列の真ん中2席。
トイレに立つたびに、どいてもらうのが苦痛なのでトイレは我慢する。
隣の日本人は頼んでも寝ていてどいてくれない。
彼がいない時にトイレに行くようにした。
11時間のフライトは長い。
帰りはツアーも含め日本人が多い。
テレビを見ながら時間を過ごすしかない。
苦痛であった。

 

10月22日

日本時間、9時に日本に無事着いた。亜子ちゃん家族が来るまで迎えに来てくれていた。
神奈川の実家まで車で帰ったので楽だった。
昼食は、ラーメンが食べたいと思い、バーミヤンに行った。
護摩ラーメンを食べたが、やっぱり広島のスタンダードなラーメンが食べたくなった。
お好み焼きも食べたい。

自宅に戻り、孫にフェラーリを見せたら大喜びをしていた。

 



女房達はお風呂に行った。
旦那と孫は車で女性群を送り車のショールムに行った。
私は、最後のミラノあたりで風邪をひき、喉も痛いので家でゆっくり眠ることにした。
シャワーを浴びてテレビを見ていたらいつの間にか寝ていた。

夜は、近所の焼肉屋へ行き、たらふく焼肉を食べたい。
日本の食事はバラエティに富んでいて楽しい。
ヨーロッパは意外と種類がなく単調であり、味も特徴がないので

ある意味では、栄養補給のための食事ということなのかもしれない。
個別には手作りで美味しい。
日本では食べれないような味はたくさんあったが、総合力から言うと東洋の方がバラエティにとんでいるという印象だった。

 

10月23日

今日は、広島に帰る日。イラリアの勤めるIKEYAに行ってみることにした。
 

新横浜の近くなので、そのまま
新幹線で帰ることにした。
日曜日なので大混雑だろうと予想をして行った。
大きなショップの並ぶゾーン。
商工センターのような環境でもあるのだろうか。
IKEYAの前にはベンツの販売店があった。
IKEYAには自家用車で来る人、駅からIKEYA専用のシャトルバスで来る人がいる。
最初屋上の駐車場は、半分程度だったので、あんまり繁盛していないのかと思って中に入ると、とんでもない大盛況。
2階のレストランは1時間以上待ちだった。
商品も、想像以上にあり、通路が設定されていてコンベアのように人が進みながら欲しいものを専用のお買いものバッグに入れて行く。
大きなものは、
番号をメモして最後の倉庫に行って、



自分で出してレジに持って行く。
その倉庫も高さは15m近くもありどうやってとるのだろうかと思う。
あまりの人の多さと長さに閉口して途中で、終点まで行くとあとどれくらい時間が必要かと聞くと、
1時間と言うので私たち男性軍3人組は、外で待っているからと言って出た。
出口には無料コーヒーの出るコーナーがあったが超満員。
東京には住みたくないと思った。
外のベンチで待つこと1時間やっと女性群は出て来た。
3時過ぎ。新横浜に行き食事をしてから、新幹線に乗った。
広島駅には、母と娘と孫の永愛チャンが迎えに来ていた。
永愛チャンは顔を忘れたのか、じっと見ていたが、しばらくして笑って愛想を振りまいた。
行くときは10歩も歩けなかったのに、ちょこちょこと自由に歩きまわるようになっていた。


 携帯電話にある万歩計による資料(日本時間のままなので、時差8時間のずれがあることを承知ください)
10/4 8633
10/5 7843(出発日)
10/6 13988
10/7 18554
10/8 9019
10/9 16985
10/10 9408
10/11 17771
10/12 12977
10/13 15342
10/14 11723
10/15 12984
10/16 17501
10/17 8005
10/18 25311
10/19 8857
10/20 12975
10/21 8551
10/22 2603(帰国日)

10/23 4441
10/24 874
10/25 609
10/26 1751
10/27 1544